 |
ODAへの参加のチャンスを放棄した日歯
ここに紹介する資料は、国際口腔保健年のスタートの年の前年(1993年)に、衆議院議員の鮫島氏の依頼で「ODAの案件に歯科保健医療を」と云うテーマで作成した企画書である。この企画書は鮫島氏を通して外務省の無償援助課に配布され、当課から「一度お会いしてお話を聞きたい」と云うことになり、鮫島氏の事務所(議員会館内)に練馬区歯科医師会会員である私と高橋篤生氏、北海道歯科医師会会員佐藤泰三氏の3名で出向き、外務省の無償援助課の片上氏と面談した経緯がある。その際、鮫島氏の具体的なものを・・・と云う依頼で、「カンボジア編」(JAICOHの村居氏よりカンボジアに関する資料を取り寄せて企画)を提出したのである。 その時、ODA始まって依頼(1554年以来)初めての歯科の案件、スリランカからの歯科大学再建の一大プロジェクトなる援助要請が丁度来たので・・・と片上氏がその書類を我々に見せてくれたのである。外務省外の者にはまだ誰にも見せてないとのことであった。
・私、 「丁度良かった、それ実行しましょうよ!」と軽く云った所、
・片上氏、「無理です。出来ません。ただめずらしいのでお持ちしただけのことです。優先順位と云う形の中では予算が付く可能性はゼロです。」きっぱりと否定されたのである。そこで
・私、「来年は国際口腔保健年のスタートの年です。WHOが提唱するものです。記念として実行しても良いのでは。」と内心"この役人の殺し文句でどうだ!!!"押したのである。すると
・片上氏、「えっ!それは何ですか?もう一度聞かして下さい。」彼は手帳を取り出し一言一句メモッたのである。そして「これでイケマス。確実を期すために外からの応援が欲しい」
・私、「日本歯科医師会の要望、陳情で如何ですか。」
・片上氏、「十分です。」
・私、この案件、日本歯科医師会で仕切る形でどうですか?
・ 片上氏、「そうなれば最高です。」
かくして、「スリランカのペラデニア大学歯学部整備計画」と云う史上初めての歯科のODA案件が実行に移されたのである。しかしながら、日本歯科医師会は話しに乗って来なかった。私はこの案件の絵を画いた商社(伊藤忠?)とその傘下の歯科業者(M)を儲けさせるために頑張った結果になったのである。
以後厚生省は日本歯科医師会を遠ざける形の行動を続け、調査団の編成でも外され、NGOに依頼が行き現在に至っている。当時前面支援、協力を約束した朝日新聞の担当記者もがっかりしていた。私は、何回か日歯に足を運び橋渡しをするべく行動したが、会長、専務、担当常務達は、私の資料を全く見ず、話の内容も全く理解出来なかったのである。ODAって何だか知らなかったらしいのである。「君は一体日歯に何をして欲しいの」と馬鹿なことを云われて、私はプッツンしてしまったのである。「結果的には俺が日歯の業績を上げるために動いて来たのだ。何を云っているんだ。企画書を読んだら判る筈、日歯が抱えている難問をささやかであっても解消が意図されている内容となっているだろっ!!」とニエクリかえりながら日歯会館を後にした。その後も調査団の報告会を日歯に対して行うように外務省を通して仕向けたが、厚生省は報告書を渡すことも拒否する状態で、外務省から取り寄せて日歯に届けたりもした。それでもだめであった。当企画の作成にあたっては文庫本(ODAに関する)を買い一読し、知人に頼み、JICAのコンピュータから歯科に関するODA事業の全てのデータも入手した。元三菱商事のエリート社員にも参考意見を聴き、ジャイカの現役理事も紹介されていた。きれいなODAの実例として外務省も期待していた。日歯の国際渉外委員会も待っていた。どうして・・・と今でも思う。私の一言で国家予算を獲得出来たことは事実であり、「来年は国際口腔保健年のスタートの年」の一言が課長に予算化OKの決断を下させたのである。
以下に掲げる 「ODAの案件に歯科保健医療を」は外務省の無償援助協力課に出した企画書である。目を通した所管から合って話しを聞きたいと連絡があり、出掛けたことから始まった。
▼次ページへ
| |