私とSports

■ 昔のことであるが、ゴルフ、聞いて知っている程度で見たこともなかったが、先輩が集まり飲んでいる中でゴルフ談義が始まっていた。「フォロースルーがいいの悪いの、こう直せば如何か」と云う議論であった。馬鹿馬鹿しくなって口を挟んでしまった。「先輩、球打った後のことを論じても意味無いのではないですか?」と。極論云えばヒッティングポイントでミートとインパクトが良ければ球はちゃんと飛んで行きます。球打った後のクラブの動きはスウィングの良否の判断材料のひとつに過ぎないのでは・・・と。
「ゴルフほどメンタルなものを要求されるスポーツはない」なんて戯言を聞くと腹が立ってならない。スポーツでメンタルなものを要求されないものは無い。「ゴルフは難しい」と云うのもナンセンス、スポーツの中でプレーするには一番簡単なスポーツである。
スコアーが多いか少ないかの違いはあってもプレーは容易に成立する。上手くなるのに大変なのは何でも同じである。紳士のスポーツだと云うのであればハンディなど要らない筈。ゴルフ場内での紳士ごっこには馴染めない。年食って、初めてやったスポーツがゴルフだと云う御仁に多いが、ゴルフは最高のスポーツと思い込むは、広言するはで耳障りもいいところである。最近はあまり耳にしなくなったが、プロ野球の選手が、オフにトレーニングとしてゴルフをやっているとナンセンスなことを云う。ゴルフなんぞトレーニング代わりにならないのである。

■ 勧められて始めたゴルフも上手くなる方法は判っていたが、そのための練習の大変さも嫌と云うほど判っていた。卓球でやり、スキーでやり、もう沢山だ。そんな頃、後輩と回っていた時、何時もと違って、何かに真剣に取組んでいた。ハーフを回ってその何かが読めたので、「おまえ、・・・・・な打ち方をものにしようとしているのか」「そうです」「ならば、お前の意図しているうち方をしてないよ。そうしたかったら、こうすれば・・・」とアドバイスした。その後感じが掴めハンディが一気に縮まったのである。「上手くなりたい奴は俺の所に来い」と良く言ったが、あまり来なかった。 今度一緒に行きましょう。と言われてクラブをテレビショップで買い、練習場へ行った。
日が悪く、プロ野球日本シリーズの最中で、コーチを頼んだが30分で逃げられてしまった。それでコースに出ると言うと、後輩が心配して早朝浮間に連れて行ってくれた。
数ホールやった所で「大丈夫でしょ」となり仕事に行き、コースに出たのである。初スコアは65位だったと思う。
ティーショットはスリーアイアン、木の練習は全くしていなかったので。同窓会支部のコンペでべスグロ優勝したこともあるのに誰も信用しない。
同窓会本部のコンペに出て、まぐれの連続で大変なスコアーが出かかって、最終ホールで故意に大叩きして調整し(それでも40台)20位にもなってしまったこともある。同じ組のシングルが信じられないと言う。スコアだけ見るからそう思うのである。コースが完成してなく、グリーンは堅く、パーオンを狙える人は皆オーバー、阿弥陀くじのように溝が丸出しのグリーンはラインもへちまも無かった。ミスショットが乗るは、でたらめパットは入るはで気持ち悪かったのである。下手だからこそ出たスコアであることは間違い無かったのである。何故止めたか、朝早いのが嫌だったこと、「しーっ」云われる雰囲気に馴染めなかったことである。止める頃は「俺はお豆」と言って、好き勝手やらせて貰っていた。それも迷惑に違いないと辞めてしまった。それから9年後、高校の同期に無理やり誘われてコースに出たことがあった。ハンディはと聞かれ35と答えたら「嘘だろっ」。最初の数ホールで「ホントだ、間違いなく下手だ、奴にハンディをやろう」と云うことになった。「俺は確かに下手だよ、だけどこんなにハンディをくれる程お前ら上手くないよ」と言ったのだがそれでいいと云うのである。結果は総取りとなった。オフィシャルハンディは35であったが36とは大違いであることだけは判っていました。

■ 健康のためにスポーツをやると云うのはナンセンスである。好きだし、面白いから身体を壊してまでもやるのがスポーツである。身体のためにやるのは体育と云って、その典型がラジオ体操である。金かけてゴルフやるより、キャッチボールを30分やったほうがいい運動になる。但し、体に良いことは面白くない。商工会議所の依頼で講演した時こんな話をしたらびっくりしていた。言われてみればそうだ!が聴衆の感想であった。
あのラジオ体操を正しく行うと結構疲れ、全身のいい運動になるもので、要所でいい加減な動きをしているので楽そうに思えるのである。生活上身体の動きだけでは、長年の間に、捻転運動、回転運動、伸展運動面で不足が生ずる。キャッチボールも30分やればいい運動となり、身体にいい。

■ イチローのバッティングは振り子打法と呼ばれている。この命名から気に喰わない。彼のバッティングはヒッティングポイントを中心としてバットを振る、バットの動きは円運動である。彼は軸を移動させ、ヒッティングポイントを中心にしてバットを振るのである。言わば独楽打法と云うべきなのである。打ち易い投球を普通に打つと守備している所に球が飛んで行くようになっているのである。変なコースの球をきちんと打てば誰もいない所に飛んで行く確率が高くヒットとなり易いと云うことでもある。大リーグに行った時、スピード面をクリアすれば打率3割は大丈夫、2年目にはホームランが増えると予測していた。彼も人間、バッティングの初動時、軸を移動する習慣が身に付き、ど真ん中のボールが打てない状態が起こるはずと思っていた。彼の敵は「疲労」だけである。出塁すればそれだけ疲れることは当然である。
松井秀喜は少々お留守と云う感じがする。日本での最後の一年を振り返って「最も印象に残るホームランは」と云う質問に「挙げるべきホームラン」のことを云わなかった。たまたまテレビ観戦していた時打ったホームランでした。「スーウッとバットが出て、何も手ごたえが感ぜず、何か抜けるような感じでした。あっと云う間にスタンドに・・・」如何したんだろうと思い出そうにも思い出せない形のもので将に無心で理想的なバッティングをしたのである。ヒッティングポイントにおけるミートとインパクトが理想的であったのである。彼はただ夢中で野球しているだけでいい、イチローとは違っていいのである。今考えるべきことは、スイングの無駄なスピードを減らし、余裕をボールを見届けることに注ぐことである。ボールとバットの衝突する瞬間を見届けることに心掛けることです。今年の高校野球の予選大会で、某受験校の野球部が勝ち進んだ背景について、プロ野球界の者は何も読み取っていない。日本のスポーツ界は未だに非科学的な塊である。排他的で、自分の過去の栄光にしがみ付き、現役選手を私有化し、改革、改善の受け皿はポーズだけであり、新しいものについては拒絶反応しか示さない。
「俺をバッティングコーチにしてみろ、皆3割打てるようにしてやる。守備の上手い内野手を作るのもやれる」と云うと笑われる。歯医者より面白い筈だが、一度巨人軍に再建のレポートを書いてくれたら、監督に読ませると云われたが、いざとなると大変でそのままになった。

■ 疲労は避けられない。スタミナとは何か、疲れていても同じ動作を継続する能力のことである。言い方を代えれば疲れた状態が正常となるような形である。トレーニング、実践を経験する中で疲れに強くなることを学習する。そうした状態で能力を発揮することを継続させることが出来る者がレギュラーの地位を獲得するのである。日本のプロ野球界、開幕に向けてキャンプなるものをやり、くたくたになって公式戦に入る。今更キャンプで体力増強も無い筈。理屈ぬきの鍛錬も必要であるが、合理的な面が見られない。
非科学的なものが目立ち過ぎる。ここ一番で、0.0・・秒の体位の維持、数センチの手首の返しが勝利を左右する、それを実践出来ることがスタミナがあるとも云えるのである。疲労を感じない薬の開発がスポーツを支える(?)世界での命題と聞いたが、それでは薬物オリンピックなのかよ・・・と云いたくなる。

■ 大リーグの投手の球はスピードが違う。変化が大きい。と言われる。スピードが増せば変化が大きくなるのは当然のことである。解説者が手許で加速するなんて馬鹿なことを言う。投手の手を離れた時が最もスピードがあり、後は減速するだけである。球が伸びると言うのも変である。変化の仕方に過ぎない。スピードは前進力であり、変化は回転と空気抵抗により生ずる(ボール自体の重力も関係するが)。効果ある変化球は前進スピードと回転スピードのバランスから生まれる。空気の湿度によりスピード、回転スピードに微妙な変化が生ずる。この微妙な変化を人間の眼がクリア出来る範囲内にあるのか否かも確認する必要はある。投げられたボールが変化する位置がずれることは確かである。その度合がバッターの生理的識別可能な範囲内にあるか如何かは判らないが。  人の生理的感覚には閾値と云うものがある。この閾値を越えない形の変化に対しては意識的な対応は出来ない。感、偶然と云うものを引き起こすことも一種の能力かも知れないが、修羅場の経験度が無関係ではないと思っている。

■ 球を何処で捕えるか、自分にとって一番適したヒッティングポイントを見つけ、そのポイントを見届けられる構えを見つけることである。草野球の応援に行くと言ったら、ピンチヒッターで出すと言われ、やばいと思いバッティングセンターに行った。今までゴロしか打ったことが無い。最初は空振りばかり、理論を唱えながら練習している中に、120キロのボールまで芯で捕えるようになった。そして当日、予告されていた通り、ピンチヒッターに指名された。一球目空振り、「ほれっあれだ」と気を落ち着けて二球目、ファールチップ、「ヒッティングポイントを見届けろっ」と三球目、センターオーバーのライナーが飛んで行った。「やった!」息が持たず三塁でストップ。「完璧なバッティング、頭が残っていてきれいなフォームだったよ」と言われた。日頃思っている持論を実行しただけであった。ピッチングマシンはストライクしか投げないが、実践では違う。
ストライク以外は見逃せば良いと云うことも出来る。四球を採る専門家がいても良くいと云う考えが出る。昔、陸上の選手がピンチランナー要員としてプロ野球入りしたことがある。発想は認めるべきである。ただ離塁のテクニック、訓練に欠けていた為ものにならなかった。音でスタートすることと眼でスタート始動することとは違う。反射神経の質が違うことに気が付かなかったのである。

■ 見られるようになった日本のサッカー
「予期して動く=
予測・・・(anticipation)
anticipator・・・予想する(先回り)人
anticipate・・・を先を見越して処理する
        の先手を打つ、先回りする」
これが最近見られるようになった。予期してパスを出す、パスの出る地点を予期して動く、シュートをする位置から、こぼれる位置を予測して動く等々、敵の選手の動きも含めて、大事なことである。試合を見ている選手がいたら、交替させる。
「あそこでシュートすると思っていた」などと平気でコメントする選手は二度と使うな。
アットランダムの中で行われるのが試合なのだ。国内の試合でいい顔している真の修羅場を知らない者が海外組と言って批判する資格などない。「予期して動く」ことを日頃心掛けて練習、試合をしている者は必ず陽の目を見る。但しトップを極めるために絶対必要なものはスタミナである。私の知り合いに元保善高校ラグビー部のレギュラーを張っていた人がいる。彼曰く「私は試合が終わるまでスピードが変わらなかった。皆が疲れて動きが鈍った頃、活躍すると云うことが認められていたのだろう」武蔵曰く「力が互角なら、剣の長い方が勝つ」。高校時代の体育の二人の先生はサッカー、ラグビーが専門であった。授業の殆どこの「怖いもの」「まどろこしいもの」をやらされて閉口していた。気合を入れられ、えいっとタックルを敢行したら、頭から行ってしまい脳震盪を起こしてしまった。「馬鹿っ!肩から行くんだ」と怒られたが勇気はかってくれた。サッカー部員の活躍ばかり目に付き、かといってついていけない、一発狙いで誰もいない所、空いたコースを突っ走り、外れパスを待った所、絵に描いたようなボールが来た。ゴール前、バウンドに合わせて、走りながらジャンプ気味でボールを蹴った。空振りしてその場で大変な転び方をした。「そう上手くは行かないよ」と冷かされたことがある。格好よく決めてやると云う邪念がボールから眼を離したのである。ゴールを見て蹴ってはいけないのである。あれが日本に欠けている致命的なものとして中田が日航の特別機でパーサーに語った「予測で動くプレー」だと云うことなのである。

■ テニスは夜中の中継試合だけを良く見た。伊達が実力のある相手が足を痛めており、絶対勝てると云う試合であった。所がここ一番でヴォレーを相手の前に落としてしまい、そのまま負けたことがある。ベストフォー進出成るかと云う試合だった。「お前はいい女だ、が試合には勝てないよ、はいっ引退!」とテレビに向かって・・・・・。 その後の試合でまた伊達が頑張っていたのだ。しかし、今まで見たことのない顔であった。嫌な女と云う雰囲気での試合であった。「これは勝てる」と確信した。良い成績をあげたが、引退となった。勝負に徹することの大変さを悟った所で引退したものと勝手に思っている。強い者の形相が、憎憎しげ、目つきが鋭いことは皆さんご覧になっている筈、いい顔していては試合に勝てない。勝とうとする意識、勝つ為に徹した動きをしている時の気持ちは顔に出る。険しい、鋭い目付きは嫌な、憎憎しげな形相にする。自分勝手、利己的なタイプは持てる力を発揮するが、トップを極めるにはセンス、繊細さ等々が必要だが、その為に更に高く厚い壁を乗り越えねばならない。己の人間の弱さを知り、勝負を通して、自分をギリギリの精神状態に置き、事にあたると云う経験を積む。スポーツマンが歓迎されるのは、状況の判断能力、目的に向かってひたすら進む、過去の振り返り方が前向きな形となるよう訓練されているからである。と言っても残念なことであるが、日本のスポーツ界を牛耳っている面々にはろくな奴がいない。デキルと思われる者は皆海外へ出る。国内では嫌われ、排斥される形がある。マスコミが嫌う者の中に優秀な者がいる。馬鹿な取材に対して拒否反応を示せば即「干す」動きがある。ネタの提供者をカモにしている。電波に、紙面にのせればあんたのプラスになると云う驕りが自分達の都合であることを、報道の結果生ずる副産物とすり替えているのである。

■ドッジボール
長野県は川中島小学校4年の時のことである。ドッジボールのクラス対抗戦があった。
担任の松枝先生は、テストして代表選手を選んだ。そして毎日放課後練習させられた。
ボールをぶつけ、手で捕らせる。近くに立たされ、先生がボールをぶつけるのである。スパルタ練習そのものであった。特訓の毎日が続き、試合となった。無論学年優勝はした。その後学年優勝した同志で試合をやると云うのである。また特訓が続き、先生曰くその気になれば6年生にも勝てると云うのである。努力した者が勝つということを教えてやると言うのである。結果は全校優勝をした。4年生が6年生を破ったと村中で評判になった。この松枝先生は常に生徒と正対していた。教育委員会にとっては困った教師であったらしい。平のまま松本の開智小で教員生活を終えたらしい。厳しく、万能な先生であった。書中見舞い、年賀状をずっと出していたが、大学1年まで、その返事に決まって「字が下手だ、練習しろ」と書いてあった。2年の時初めて「よしっ」と書かれた。私の同級生(卓球部員)のN君が書道の達人で、彼のノートを写すことで、私なりの字が出来たのである。彼のノートは頁の換わる毎に書体が違うのである。上手い字を見ながら、ノートを作った副産物であった。素晴らしい絵も描く先生だったが、私は絵は駄目であるる。上手く描こうとする邪念がいけないと悟っている。今までに、これはいいと思った絵が二点ある。一点は小六の時である。これは学校で保存すると云うので手許にない。もう一点は夏の合宿中、早朝の木崎湖の湖面と向こうの山、湖面の霞が、少しずつ上昇する光景があまりにも美しく、思わずスケッチブックを取りに行き、無心で描いた絵である。残念ながら部室のロッカーに入れておいたが、床に落ちても誰にも広い上げられず、踏みつけられてしまっていた。

■ バレーボール
高校時代だけに、9人制であったが、クラス対抗戦であった。選手の一人となって頑張った。私の得意技は「お見合いボールを手の甲で浮かせること」「コート外ボールを拾い返すこと」「変化球サービス・・・バックスピン、スランティングスピン(斜め回転)」であった。ボールが大きさが違うだけ、やってやれないことはないで練習したのである。 それにしても、ピンポン球とは大違い、手の甲が腫れ上がった。もしかしたら、バレーボールでこの類の変化球サービスを初めて実行したのは私かも。当時、ドライビングサービスと無回転サービスしか見てない。城北予備校には中庭があり、昼休みになるとプレーヤーで一杯となった。皆現役時選手だったようで強烈なスパイクをよこすのである。
輪に入って相当揉まれた。9人では邪魔になるが6人では大変となるそれがバレーボールである。日本の代表団、攻撃力は増して来ているが、守備力がお粗末、拾うリズムが出た時には善戦している。映像ではスピード感がない故、相当な球が来ているのでしょう。いずれにしろトップを極めることは大変である。又トップを一度極めた後、持続させることも大変である。日本人の体位が向上する根拠はない筈だが、なんとなく背の高い者が増えているような気がする。畳の生活(座る)からイス(腰掛ける)生活のへの移行が大きな要因と聞いているが全然説得力が無い。私は食生活の変化による添加物、成長ホルモンによるものと思っている。肉が安くなってからの傾向だなんて何と無く云っているがどんなもんであろう?

■ ソフトボール
中学校時代、やはりクラス対抗戦でピッチャーをやった。コンクリートの壁に向かって投球練習に励んだ。スピードボール一本でコース突く練習であった。全校優勝したが、東京都大会に出ることになり、チーム編成が行われた。私以外の選手は殆ど野球部だった。毎日の投球練習が続いた。しかし、当日滅多打ちに合い、交替させられたが、十分納得していた。何故?投球練習した距離の設定が近く、本番では棒球となってしまったのである。ホームプレートが遠く見えたのではなく、実際遠かったのである。頭を掻いてベンチに下がった。俺が馬鹿だった。それでも、会のソフトボール大会があり、勇んで参加した時、使って貰えず、トレナーを着ていたのでお情けでピンチヒッターで使われ三振してお仕舞い。デブで威張って仕切っている嫌な野郎にムカついていたので、翌年は「俺が投げる」とデシャバリ、プレートに立った。強打者と云われていた者を全員三振に討ち取ってやった。その後の大会でこの嫌な野郎はメンバー不足のブロックへ「うちの戦力外選手をおたくへ出す」と嫌味なことを云って私を他のブロックへ移した。この一言が頭に来て対戦試合でホームランを打ってやった。「馬鹿野郎、言い方があるだろうっ」・・・コイツとは以後ずっとソリが合わない。張り合う気にも成れないので以後逃げている。最近のオリンピックでは、女子チームの試合を懐かしく「たいしたもんだ!」と観ていた。

■ バトミントン
高校3年生の時、体育の授業は卓球、テニス、バトミントンの何れかを選択して行われた。そして勝ち抜き大会が行われ、バトミントンで優勝し、体育の教官との試合になった。私はスマッシュと拾い捲ることしか知らない。小技で翻弄され、力尽き負けた。
ふと思った「卓球よりバトミントンの方が向いているかも・・・」と。敏速性、瞬間運動量の点では卓球に次ぐ競技と思っている。

■ テニス(軟式)
中学時代、軟式テニスである。全国大会代表も出ているレベルのテニス部であった。
ある時、顧問の一人であった担任が「ダブルスで一名足りない、神谷前衛をやってくれないか。練習はやって貰うよ」夏休みのことで、特訓を受けた。レシーブ、ヴォレー、スマッシュを主にであった。目の前からぶつけてくるボールを止める特訓が怖くて、大変だった。都大会では4回戦まで行きやられたが任務は果たせた。その後大学のクラス対抗では2年連続優勝し、軟式テニス部のエースも破った。硬式の時代だが、軟式には軟式の面白さはある。硬式より難しいかも知れないが。数年前、患者さんに誘われて、硬式テニスなるものをやったことがある。10分も打ってみた時、試合をすると云うのである。結果は4勝2敗だったが、球を追う習性は残っていたらしく、無理して腰を痛め、足の爪も傷めた、靴が小さかったためだ。その後は遠慮した。へなへなボールばかりなのでつい調子に乗って追いかけたことがいけなかった。自分はもう若くないのだ。

■ 水泳
川中島にいた時は、犀川の支流が学校の脇(中に近い)を流れていたこともあり、飛び込んでは、もがいて向こう岸に着いたと云う感じでした。橋の欄干上から飛び込んだりしていたので、全く駄目ということではなかった。東京に来てからは、年に一度豊島園のプールに行かせて貰った程度で高校となった。夏休みに全員泳げるようにすると講習会があった。クラス分けが始まり、泳げない者は番号だけ言って、歩いて渡れという指示があった、だべっていた為番号を呼ばれて、返事をすると同時に頭から飛び込んでいた。浮かび上がったところで「泳げません」と宣言して怒られた。「泳げない者が何で頭から飛び込むんだ、ばかもの!」と。然しながら「寒冷蕁麻疹」と診断されて除外されてしまった。夏だと云うのにその日は震えが来る寒さであった。云われて気が付いたら自分の身体が斑に、真っ赤になっていたのだ。以後水泳とは無縁でこの年になってしまった。子供は達者である。二歳から通わせた。或るときプールでスピードを増す為には「こうしろ」とアドバイスしてクロールのタイムが縮まったことから「パパはホントは泳げるのでは・・・」云われた。嘘ついてもしょうがないだろっパパは泳げないよ。但し飛び込むことは出来る。それも頭からでないと駄目で、足からは怖くて出来ない。「変なのっ」実際そうなのだから仕方ない。
岩崎とか云う子が中学生で金メダリストになった時、「はいっ君は水泳を止め、他のスポーツに鞍替えしなさい。このままだとぐちゃぐちゃにされるよっ」テレビに向かって云いました。個人の能力をメダルを獲った途端に国のもの、マスコミのものとされる、メダルを獲るまでの過程に投資もしなければ、支援もしない。結果だけを餌食にする日本、能力のあるものは海外に出て行くようになる。空洞化は能力でも起きている。

■ スキー
大学5年の時だったと思う。期末試験も終わり、あとは再試があるだけと云う時、遊びに行こうとスケート組とスキー組で白樺湖に行った。予約してあった国民宿舎が見当たらない。おかしいなあと云っている所におじさんがやって来て、「火事で無くなったんだ、料金を同じにしてやっからウチに来なっ」大笑いで世話になることにした。私はスケート組、写真機をもってスケート靴のままゲレンデにも出張。友達のスキーをチョッと借りて滑ってみた。何とかなると感じた。翌朝新雪の後で快晴、朝早く起き、友達のスキーを持ち出して、斜面を登った(リフトはまだ動いてなかった)。どの辺からすべってやろうかと考えているうちに、斜面一つ分登ってしまった。スキーを履いて下を見るとすごい急坂で怖くなった。その時上の方からまっしぐらに滑っていく奴がいた。「ああすればいいのか」と私も思い切った。スピードがどんどん出る。前屈みになる、雪けむりで周りが見えなくなる。止まれない、どうして止まるか、転ぶしかない・・・怖くなっていたからバランスが崩れ、方向が丸太で組んで作られている中継所みたいな所に向かっていることに気付く。このままだと死ぬと思った。身体を投げ出したつもりだったが、何回も宙を舞って止まった。スキーは両方とも先が無かった(だから両足が無事だったのだ)。スキーが初めてと云う奴が新雪のA級コースを直下降したのである。それからはスケートをやめスキーにした。曲がり方は判らないが、板の踏み換えを素早くやれば方向転換出来るはずといった具合で無茶なスキーをやった。その後スキーをする機会は無かったが、勤務をやめ、ショボくれていた暮れ、先輩にスキーに行かないかと誘われた。スキー学校に入ることになるがひとつ約束してくれ、「指導員にイチャモン付けないことだ」「黙って指示に従います」と宣誓して参加した。普通のスキー学校とは違っていた。指導員はオーストリースキーの研究グループ「スカディクラブ」の面々でした。私は斜滑降、ボーゲンからみっちり練習させられた。2回目でシュテムクリスチャニアをパーフェクトの評価を取得した。
3回目では、上級者グループに付けたしの形で入れられた。赤倉の前山の急斜面で、怖くなり最後の一人となって如何しようかと思っていた所、前に滑った女性がフリーズしてしまった。時々起こる恐怖で動けなる状態である。私はしめたと横滑りで助けに行くことにした。これでこの急斜面を降りなくて済むということである。そばに行き、罵倒することで、恐怖の置換をし、降ろした。パーティの時お礼に来たが、岩崎家の血筋の者だったらしい。「この人、ひどいことを言ったのよーっ」と皆に言いつけていたようです。最後は私が怖くなって降りたと言うことでした。校長は福岡(元男爵)と云う方を始め、岩崎弥太郎の孫、とか上流?の層にいる方ばかりであった。愛知和夫氏もメンバーであった。着いた晩は「○○年さようならパーティ」翌日は「ニューイヤーパーティ」そして「さようならパーティ」ホールを貸しきって毎晩パーティなのだ。何と云うグループだと思った。
スキーをバンバンやろうと長野日赤に身をおき、4月までいた。一度急に気が向き宿の予約なしに志賀高原に行った。長野日赤病院の救急診療所の医師達の拠点となっている宿に行けば大丈夫と云われていた。満室であった為スキー学校の指導員が滞在する屋根裏部屋に案内された。コタツが沢山ならび、指導員達がなにやら議論している。空いている所に入って聞いていた。その日は「初心者指導について」がテーマであった。だいぶ経って、「オタクは相当おやりになっているようですが、何か意見がありましたら聞かせてくれませんか」と云われたのです。そこで所見を述べた所「明日熊の湯へ行くのですが、一緒に滑ってくれませんか」えらいことになった「申し訳ない、明日は発甫で人と会う約束がある」と咄嗟の嘘をついて逃れた。ボ−ゲン、斜滑降の身で一緒には・・・。[所見の概要:雪の上に立つことすら初めてと云う者もいる点軽く考えすぎる。又スキーを履いた状態で雪の上に立つことがどう云うことか、普段の生活と結び付けるような説得が無さ過ぎる・・・。抜重と云うが、貴方方は立ち上がり、沈み込みでどの位の重力が減るか知っていますか?]と云う私の問いに答えた指導員はいな買った(共に一瞬ゼロとなる)。
その後シーズンとなると30回行こうと思ったがなかなか消化できなかった。年末年始のスキーは志賀高原からニセコに変えた。八方尾根にも随分行った。戸隠高原が穴場であった。熊の湯で、なだらかな長い坂をリフトで行く途中、寝てしまい中継所(宮様が降りる所)でスキーの先端がひっかかり落ちたことがある。非常に危なかった状況だったが、素早い身のこなしで、仲間にも落ちたところを見られずに済んだ。「何であんな所で降りたの」と聞かれて答えようがなかった。べつな時だったが、そのコース(宮様コース)を滑りながらタバコに火を付けていたら、もう少しで写真撮影している所に突っ込む所でした。写真撮影をしていたのは高松宮家の人々でした。あやうく新聞沙汰になるところでした。
結婚してから、次第に遠ざかったが、結婚した為と云うより、仲間が次第に離れ離れとなり、スケジュールも合わなくなっていったせいもある。板はミッシェル(黒2.1m)靴はロッグとやっと揃えた頃でもあった。60歳の時である。子供に教えるために久しぶりに湯沢に行った。「チョッとやって見るか」と中級コースであったが一気に下まで降りた。何時も途中で一休み、一服するので止まらず降りたのは初めてのことであった。曲がる度に「とりゃっ!」と声出して滑り降りた。その時教えた愚息の友達と云うのは、成績抜群、頭いいが、体育の先生に「俺をからかっているのか」と言わせたほどの運動駄目な奴であった。付ききりで教えた。「お前は頭で滑れ、俺の云うことを良く聞け」「頭は帽子の台じゃない、頭を使え」とやって2回目のスキー行きでは滑れるようにした。ひと曲がりで脇のヤブ中に落ちる、這い上がってコースに立つ、今落ちた方に向かう形で立つ。「お前馬鹿かっ、これから滑る方向を考えてスキーを揃え、履き、立てよ!もう一度同じ所に落ちるか、頭使え!」とどやされながら、上達はした。その彼は今では・・・「独協医大で医者やっているそうだが大丈夫かよ」最近、手術は手でやるものだと云うことを忘れて頭でやる若い医師がいるので心配だ。

■ 卓球
合宿のプランに特訓練習として、500往復ラリーを導入した。連続で500往復ラリーをクリアするまで無制限でやると言うものである。午前中は誰もクリアしなかった。と云うより、「出来っこない」「無理だ」と云う雰囲気である。時間の経過と共に、皆の心中に「やらなければしょうがない」と云う意識が芽生える。ラリーが続くようになり、「出来そうだ」と云う意識が芽生える。さらにラリー数が増える。もう直ぐ達成と云うところでミスる、しかし腐らず、励ます声で満ちて行く。午後3時頃にクリアする組が続々と出る。そして全組(員)クリアした。その間レット、エッジボールにも反応して続ける光景も少なくなかった。集中度はすごいものであった。後で知ったことであるが、世界選手権の代表選手の強化合宿では2000本ラリーが課せられているとのこと、そして大体3時間でクリアすると云うことである。レベル的に500本は丁度良い、効果的数値だったようであっ合宿では、「理論の講義」をした。流体力学、衝突の力学等である。
日本卓球協会の強化合宿では荻村氏がヘッドコーチとなった時プランにいれて選手達の好評を得た。合理的トレーニングを導入したのも彼であった。
 東京歯科大学卓球部は大正大学、農業大学と並んで日本の卓球史の第一頁を飾る伝統を持っている。入学が決まると、「あそこの卓球は伝統がありすごいぞ」と父に言われた。それなりに緊張して、入部手続きをしに校内を歩いたが、卓球部の影すら見つけることが出来なかった。始業日に卓球台が二台講堂に運び込まれたのを見ていたのでどうなっているのかな・・・と二年生の教室に行き聞くと、部員らしき先輩が出て来た。二年生に3人の部員がいた。放課後講堂に行き球打ち始めたが、私より皆下手であった。伝統ある卓球部ってこれっ?そのうちに同級生が続々入部して来た。二台を使って初日から指導が始まった。その後学部に5名、常時練習に参加出来る先輩は1〜2名、リーグ戦には5名必要と云うことで、試合一週間前に練習に参加する先輩が2名・・・と部の存続すら怪しくなっていた。「お前はこっち(水道橋)に来て練習すればよい、初心者など使い物にならない、放っておけ」と先輩に云われたが、とうとう最後まで逆らった。そのうちに「卓球部の再建が俺の使命」だと思うようになり、5年計画で練習を積み、5年目でレギュラーが揃うようにすれば良いと考え実行に移した。発行されている指導書を全部買い、自分の指導書を作った。一番良い指導書は日大監督八百枝氏のものであった。合宿の計画は授業中に立てる、見る度に考えが変わる。固まるまでに2ケ月はかかった。練習内容と練習相手と使用台、そしてタイムテーブルまで作るのである。その間試合があり、それを見ては「この練習が必要だ」と云うことになる。上達を早めるには理論講義が効果的と考え導入、「流体力学」「衝突」「摩擦」と物理の講義を聞かせた。365日中360日卓球で過ごさせる、それが6年続く学生生活を送らせようと云うことでもあった。心理学の本を随分読んだ。そして現場と照合した。授業の心理学は殆ど寝ていた。上達ぶりは(5年計画は)予想以上、但し技術的に伸びても、試合に勝つには別な教えられないものがある。大会で8台のコートの片側に立つ選手が全員東京歯科大学と云う段階が見られるようになった。16になると大分消え、ベストエイトでは数人、ベストフォーでは・・・。平均的実力はNO1、飛び抜けて強い者がいなかったと云うことである。中には高校からやって来た選手もいたが、初心者指導と云う任務は彼等のレベルアップを妨げたが、これは仕方無いことであった。
夏の合宿計画書の冒頭に書いたこと
" Do you love me ? " " I think so " " Do you think I love you ? " " I hope so " 映画「ボーイハント」のラストシーンで交された会話である。 卓球一筋の学生生活に対する思い、悩みを当然持っていると云うことで関接的に答えたつもりでした。又付記したこと「集団力学」組織作り、組織の向上、活性化に参考となるとして。他部の者(後で無二の親友:師匠となった同輩)からこんなこと何処で学んだのかと聞かれた。
  そして6年生となる時がやって来た、次期キャプテンを決めて第一線を退くのである。
 キャプテンとして部会で言ったこと「とにかくここまで仕上がった、ただ自分のやり方は結果的に理論、理屈、精神論めいたことに終始したと思えてならない。これからの卓球部を逞しくしてほしい。試合に勝つには如何すれば良いかが命題となる。頼むぜ!」
 卒業して5年間は合宿にフル参加し、OBの参加も増え、その光景は圧巻であった。
 そんな私が急に卓球部から身を退いたのである。きっかけは「現役のレギュラーから留年者を同時に2名出たことである」その頃には、感じていたが、プライバシーの尊重、個人の尊重なんてことを盾にやたらと逆らう、異議を唱える馬鹿がいた。それも皆のいる所でしかやらない。異論、疑問があったら直接話に来れば良いのであるが、どうやら皆の前で私をやっつけたい、恥じをかかせたいと云う姿勢であった。どうやら退き時かなとは思っていた。お節介をやかない=面倒見ない、仲間が悩んでいても、それは個人の問題、やばい状態にあっても、それも個人の問題と知らぬ顔・・・・・そうした風潮の元で留年者が出たのである。学業はプライバシーと一蹴してクラブを動かして来たが、水面下では、全部員の出席状況、成績を学生課で調べ無事進級、卒業するように努力していたのである。絶対留年者を出さないと云う方針を貫いた。そうでなければ親に申し訳ないと考えていたからである。一番やばかったのは私自身でした。隆盛を極めた十数年は終わり、部員が減り始め、部員のいない学年が生じた時こそ消滅への下り坂道となる。そうなってしまった。最近復活したと通知があり、活動への助成として寄付依頼があるが、「週に2〜3日の練習で成績を上げるべく頑張ります」仕方無い状況であることは判っているが、容認出来ない。昔とは違うと云われればその通りであるし、現役には何の責任もないのである。ただ私の関わりたくないと云う正直な気持ちは如何ともし難いのである。今は日本の卓球史が100年を迎える時の準備をするべく、二校に声かけようと考えている。現在OB会を仕切っている連中の発想はお粗末である故、内緒にして主導権は農大、大正大に採らせ、日本卓球協会のもとで100周年事業が開催されることになると考えている。10年後の話、それまで元気でいるかは???だが、卓球に関するただ一つの仕事だと思っている。愛ちゃんの御かげで卓球ブームがささやかに起きて来ている。彼女はまだ伸びるか?と聞かれる。筋トレはやっていないようだし、バックハンドを強化し、フォアハンドもまだ甘い・・・まだ強くなれる。彼女のマスコミへの対応は上手い。頭の良い娘だ。

■鉄棒は苦手、逆立ちは絶対出来ない
 マットはなんとかこなせるが、「飛び込み」をやれと云われて皆びびってしまった。  体育の先生の罵声が飛ぶ、それなら俺がと先頭きってやった。高校の時のラグビーの時間を思い出した。みなビビッテタックルをやらないので、後ろ向きに立たせ、タックルしろと云うのだ。される方の怖さよりする方が良いと、ラグビー部員以外で初めてタックルを敢行したことを。鉄棒もなんとかクリアしたが、どうにもならないのが逆立ちだった。独りでの逆立ち出来たことはなかった。大学の体育の教官は体操上がりで、とうとう試験で逆立ち3秒と云われた。どうせ出来ないのであるから、練習もしないで試験となった。一応やらねば・・・と前に出て番号を云い「えいっ」と地を蹴ったら、なんと出来たのである。それも3秒をクリアしてしまったのである。その後も出来たことは無い。いくら土壇場になると強いと云われても・・・ 逆立ちだけは無理と思っていた。

■陸上
足は速くはなかった。障害物競走は出場したレース全てトップであった。あとは駅伝競走(大学時代のクラス対抗)、マラソン(大学時代の運動会)には出た。駅伝は距離が短いこともあり、トップを買って出たが、スタートとすると短距離的な感じで皆走り出した。どうなってもいいやとばかりバンバン行った。後半になって二位を確保していたが、先頭を走る奴が振り返りながらスピードを増すのである。果ては上り坂で引き離された。
 後で奴は云った。「生意気にようっ俺に付いて来る奴がいたんで、思いっきり離してやった。神谷だったんだあっ」。マラソンでは、雨風がハンパでない中敢行された時のことである。脱落する者が多く、トップグループにいて頑張っていたが、最後は5位となってしまったことがある。「この悪条件だから、神谷は・・・多分5位で戻って来る」と云う友人の予想が当たった。その後運動会の責任者となった時、距離を伸ばしにかかり、卓球部の春の合宿時にコースを探した。当日になって、出場した卓球部部員は、新コースの曲がる地点を通り過ぎでしまい、大笑いしたことがある。サッカー部や陸上部の鼻を明かしてやろうと密かにワンツースリーを狙っていたのであるが・・・。
 苦しくて、横腹が痛くなり何とかグランドにたどりついた時のことである。グランドに入るや、息を吹き返し、短距離を走るような感じでゴールに飛び込んだことがある。余力を残さずゴールで倒れれる位で走って見ろっと自分に云い、情けない思いもした。有森は金を取りにかかったとはどうしても思えない。銀の確保にかかったとしか見えなかった。日本のスポーツ界で科学的トレーニングをしているマラソン、民間スポーツ界で能力者が発掘され、伸びていることは良い傾向であるが、体協、連盟なるものがシャシャリ出て来る辺からおかしくなる。
?