なんとなく気になっている疑問って誰でもあると思います。
それが時々でも

■ 長年の疑問@・・・11月12月は何処に行った、何だったのか。

一月はJanuary、二月はFebruary、三月はMarch、四月はApril、五月はMay、六月はJun、七月はJuly、八月はAugust、九月はSeptember、十月はOctober、十一月はNovember、十二月はDecember9月のSept は7を意味し、10月のOctは8を意味する。
「September は元は7月、Octoberは8月だった」ということであるが、何故そうなったかは、6月にはジュリアスシーザーが自分の名を入れ、7月にはオーガストシーザーが自分の名を入れたからであると予備校の英訳の時間に石川先生が言った。その頃から2ケ月分がずれることになる。それでは、もともとあった11月と12月は何処へ行ってしまったのか、それは何だったのかと云う疑問を持ち、以来時々思い出しては色々調べたが判らなかった(真剣では無かったが)。最近結果が出た。1年が12ヶ月から成り立っていると言う思い込みがいけなかった。もともとは10ケ月だったのである。
以下はインターネットで調べたものである。
「紀元前46年、同じ暦を使うことですべての領土をコントロールするため、ユリウス・シーザ は天文学者のソシゲネスに一様なカレンダーを開発するよう尋ねました。ソシゲネスは1年が365日で4年毎に特別な"うるう年"を加えるユリウス暦を提唱しました。これは一年が365日と6時間長いという彼の観察に基づいていました。ユリウス暦は12の一様でない月に分けられました。それは月のサイクルに十分に一致していなかったし、外見上も、このことを重要だと考慮されませんでした。アウグストゥス帝王は、6番目の月をAugust(8月)と名前を変え、August(8月)を31日にするため2月から1日を借りました。彼はAugust(8月)をジュリアス・シーザーにちなんだJuly(7月)と同じ程度に長くしたかったのです。[訳注:当時の暦は農耕の便宜に合わせた10ケ月からなり、農作業のない2ケ月は暦にいれなかった。年の始めは3月1日。8月は6番目の月だった。]」


■長年の疑問A・・・東京にも原爆が投下された。

高校3年の日本史の授業で、S先生が言っていたこと、それは東京の保谷に原爆が落とされたが不発だったと云う話、聞く限り「成るほど、あり得る」と思っていました。それから20年程経ち、その頃付き合っていた朝日新聞の社会部の記者を誘って、その先生を訪ねた。8月15日が近づくと思い出しては誰かに話したのである。
「ああ、その話ね、あの当時は信じて疑わなかったが、実はアメリカの情報公開の中で、当時日本に知られて無かった情報、1トン爆弾の上に5トン爆弾があったことが判り、投下されたのは、それだったらしいのです。原爆投下の模擬訓練だったのでしょう。原爆投下に合った気象条件、被爆圏から皇居を外した地点、軍需工場、司令部の存在等がぴったりだったこともあり、てっきり原爆と思ったのです。」使われた飛行機も同一機種、飛行状態も同じ、進駐軍が直ぐに立ち入り禁止地区としたことが・・・1トン爆弾ではあんな大きな穴は開きませんし・・・。朝日新聞の記者O氏の記事にはならなかった。
 当時、地球半周出来る飛行機が出来ており、二機あった。一機はドイツに向って飛び立ったがインド洋あたりで撃墜されたようだ。残る一機でホワイトハウスを攻撃して、日本に余力ある所を見せて講和条件を有利なものにしようと作戦を上げたが、帰還すると云う作戦でなければ天皇陛下が許可しなかった。「その飛行機の開発には朝日が絡んでいたんですよ」。マッカーサーが厚木に降りる所を攻撃し、最後の抵抗を試みると、航空隊の士官が各地から朝霞に集結し、その司令官を務めてくれと頼まれました。三日三晩断念するように説得した。その作戦は実行されなかったが、その後の彼等の消息は全員不明でした。多分海にでも突っ込んで自決したのでしょう。気の毒なことです。
 連合軍の反攻で、撤退を余儀なくされた時、713部隊の成果を実行する作戦が上がりましたが「人道に反する」と天皇陛下が許可しませんでした。神風特攻隊は、作戦上は帰還すると云うものでしたから許可されたのです。今になっても「墓場まで持って行こうと決めている事が色々あります」と語る佐々木先生の姿は今でも思い出せます。
私は、クラブに夢中で勉強はしない、高3のクラス編成では、志望上理工系に入れられたが、常に平均点を下げる側でした。一度平均点を上げて見たいと、これから始まる日本史を先に勉強し丸暗記に励みました。一回目の試験では、一番となりました。日本史だけは平均点を上げる側を維持しました。佐々木先生は駿台予備校でも日本史を講義していたこともあり、多少なら下駄履かせてくれると云うので駿台の試験を3回受けました。皆さん落ちました。3回目に四谷の午前に最低点で合格しました(まぐれです)。がこんな予備校へ行っても俺にはついて行けないと辞めました。


■長年の疑問B・・・自分の名前の由来

親父の名前は日出照明(ひであきと読み、この世で一番明るい名前だと何かの雑誌に出たことがある)兄は知明、弟は明正、親父の名前の一字「明」が入っている。俺だけ文彦である。何故か。当初つけようとした名前は「文明」であったが、当時土屋文明と云う物書きが流行っていて、あやかったと思われるのが嫌であった為、急遽「文彦」にしたと聞いたのが7年前である。姫は女の美称、男の美称は日子=彦と云うことである。私だけが日赤病院でお産し、大部屋代表で皇后陛下から金一封を貰ったと云うことがあり(お産費用が只となった)それで日子を入れたのかなと思っていたが違っていた。皇太子(現天皇)の誕生日に合わせて、良くぞ男の子を産んだということのようであった。
長女の洋子は太平洋戦争が始まった年で「洋」とした。一番下の妹は・・・「覚えていない」
90歳の親父に聞いたのである。因みに我愚息の命名は、縁組主清藤志朗先生の字を無断拝借して「清志」とした所、かみさんが一字がいいと云うので志を取って「清」としたのである。美しく書きにくい文字である。一生下手なサインをして行くことになるとは思ったが、宿命と諦めてくれっと云った所である。


■長年の疑問C・・・母と父の出逢い、赤いガラスの花瓶

愛媛の今治出の父、長野川中島出の母がどうして出遭ったのか?
父は末っ子(10人兄弟?の)で奉公に出て、転々としていた。木工もやったことがある。そのうちに歯科医院に入り、技工を始めた。院長の勧めで日大歯科の夜学に通い始めた。その時には、院長の勧め(働き者の女がいる、どうか)で一緒になっていたらしい。母は10人兄弟の次女で、開業医で看護助手として働いていた。多分院長同士知り合いだったのであろう。授業料が足りなくなると休学して、お金が出来ると復学して歯科医師になったと云うことである。獣医の資格も採っていたので、獣医として徴兵を受けたが、戦地に行く直前に終戦となった。この程度のことしか聞いてなかった。
 母の傍には必ず「ガラスの花瓶」があった。逝く1年程前にそれとなく聞いた「何で、あの花瓶いつも傍にあるの???」と。「あれはねえ、私が世話になった院長の奥さんが買ってくれたの、嬉しくって、すごっくきれいでずっと宝物にして来たの、何時かこんな綺麗なものを自分で買いたいと思っていたの」そうか、それで判った「家の中に花瓶が一杯となっている訳が、一寸褒めるとすぐ持って行け、又買うのっと云う訳が」。スワロフスキーのクリスタル細工も増えていました。「何で、○○買って来ないの?」「欲しいんだけどちょっと高いから」海外旅行で買ってお土産にしました。「向こうで買うとえらく安いんだぜ」と嘘ついて渡すと、「へえ、そうかい。」と嬉しそうでした。その花瓶を形見として長女に持って行けと云ったが「そんなもの要らない」と云うので訳を聞かせたら、涙ぐんで持って行きました。母の入院中、一時帰宅に備えて部屋の掃除、片付けをしていた時、箪笥のどの段もタオルで一杯だった。殆ど貰い物であったが何故あんなに貯め込んだのか未だに判らない。


■長年の疑問D・・・あのオバサンは誰?

放浪の旅を終え、父のもとに入った。父は病気し、退院しても診療が出来る状態ではなかった。後を継いだ形となった。以前はたまーに見たオバサン、川中島の知り合いと云うことで深くは考えなかった。そのうちに全く姿を見せなくなった。大分経って、本当のことを知った。川中島から東京へ出て来た時、借家兼借診療所であったが、大家の一方的契約破棄に大変な思いをし、結局出ることになった。丁度近くの大工の棟梁の奥さんが、土地を見つけ、家まで建ててくれた経緯があった。当初お金は後でいい・・・とか云うことだったが、そうも行かなくなり、その棟梁の奥さんの紹介で高利貸から借金し、支払いを済ませたと云うことであった。金貸しのオバサンだったのである。私が診療をし始めてから、数年経って返し終わったのだと母が話してくれた。このことは私しか知らないことである。
子供なんてものは、親の苦労の一部しか判らないものである。
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